「嫌い」という感情を主張することは悪なのか

 とある作家を「好きではない」といったところ、相手の人に影で罵られたことがあったので書きます。

 私はそもそも事前にその人がその作家を好きだという情報を持ってたら、そんなことは言わなかったと思う。

誰かに進んで嫌な思いをさせようとは思ってないからね。

もしその作家について芸術について議論をしたかったとしても、ちゃんと相手を選ぶ。

 

私はその作家に生理的嫌悪を覚える、ってだけで、その作家自体とかそのジャンルの存在を抹消したいと思ってるわけじゃないから。

 

でもそれをきっかけに、「嫌い」という感情を発信するのは悪いことなのか?ということについて考えた。

 

私個人の考えでは

好きではないものとか人をやみくもに批判するのはあまり良くないことだと思ってる。

 

ニーチェは『ツァラトゥストラ』で「ハエ叩きになってはいけない」って言ってるしね。

しょーもない敵を作ることになる。

 

あと明らかに差別からくる嫌悪を発信することも良くない。

それは教育とか学習が足りてないってことだと思うし。

 

逆に自分が「これだけは譲れない!!」っていうものは主張しても良いんじゃないかな?

そうすることで周囲にいる人物を厳選できるというメリットもあるから。

 

嫌悪自体を醜い感情として嫌う人もいるけど、博愛主義(サルトル『嘔吐』の独学者とか)は、それはそれで分裂的な思考なんじゃないかな、とも思う。

 

じゃあ無関心はどうなのかっていうと、それは時と場合によって使い分けたら良いと思う。

最初に言った通り、自分が熱量を使うべきところに使って、たまには目を瞑って体力を温存するってことも大事なんじゃないかな。

 

そんだけ。

 

じゃあね。

 

 

 

ポケモンパンを買ってしまうのは何故か真剣に分析してみた

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私はポケモンパンのシールを集めている。

 

いつものスーパーにはいつも同じ味しか売っていないのだが、今日行ったスーパーは少し大型だったので、ポケモンパンのレパートリーが沢山あり、しかも5個入りのクロワッサンでシール二つつき(!)という私には馴染みのないものがあり、ピカチューが載ったいつもの小さな袋のヤツと一緒に買ってしまった。

 

そこで私はふと疑問に思った。私は何故ポケモンパンを買ってしまうのだろうか。

 

保育園生の頃からポケモンカードなどを集めていたが、ポケモンのアニメ自体には対して興味を持てなかった。ゲームにしても然り。

 

私は他人の創作物に熱中するのが難しい子供だったのだ。今でもシリーズもののアニメや漫画は苦手だ。

それが作り込まれた世界観であればあるほど、熱中するのはより難しいように思われる。

 

そのためほとんどいつも一人で見えない友達とごっこ遊びをしていた。

 

と、こんな感じで、私にはポケモン対して、それほど強い思い入れがない。

 

なのに何故ポケモンパンは買ってしまうのか。

 

パンならパン単体を売りにしている商品の方がよっぱど美味しいし、ポケモンショップに行けばシールなんていくらでも手に入れることも出来る。考えてみればポケモンパンのシールなんてくだらない。

 

しかし私はポケモンパンのシールに抗いがたい魅力を感じるのである。

 

私には幼い頃から収集癖があるので、所有欲を刺激されるから、というのも一つの大きな原因であろう。

 

ポケモンパンの素晴らしさはパンが対して美味しくないことにもある。まずくはないし普通に美味しいのだが、やっぱり他のパンに比べると劣る。

しかしだからこそ、なんだか買ってしまうのだ。

 

また、シールを包装している銀色の袋も素晴らしい。

袋の中に、小さな平たい袋が入っていることは非常に大きな魅力だ。

 

「中身がわからない」ことが、購買意欲を促進するのだ。

 

しかも会えるキャラクターは大体一匹だけ。たまに知らん奴が出てきたりもする。

 

でもポケモンパンがやめられない。

 

シールの表面のザラザラ感や独特の材質、色のくすみ、安っぽさも素晴らしい。

便所サンダルに似た魅力を感じる。

 

なんだかんだで私は集めたシールをファイリングしている。

 

これがまた楽しい。

 

しかしこれがもっと妖怪ウォッチなどの別のキャラクターなら、恐らく私は集めていない。

 

ポケモンが世に知れ渡った馴染みの深いキャラクターであるということと、やはりポケットモンスターという設定の魅力それ自体にも、私は強く惹かれているに違いない。

 

幼い頃からそうだ。

 

試験管の中の生命体、瓶の中の蛍、たまごっち、プリキュアカードコミューン

 

小さくて魅力的な生き物を、いつでも自分の意思で出会える環境下に置くことが出来るということには大きな魅力がある。

 

また入れ物に入り、基本的には外界から遮断された空間に、自分だけの所有物として小さな存在を所有出来るということに、私は満足を覚えるのかもしれない。

 

何かを「自分だけのものとして」所有するのは現実の世界では非常に難しい。

 

ペットを飼っても、学校や会社に行く間は離れなくては行けないし、彼らは病気になったりする。それでも私はペットが欲しいと思うのだが、自分の思い通りにならない小さな存在に対する恐怖感は否めない。

 

そんな現実世界でのストレスから解放してくれるのがポケモンボールだ。

ポケモンも物語の中で傷ついたり色々するが、ピカチュウイーブイといった可愛い生物を、いつだってボールに入れて持ち運ぶことが出来るというのはやっぱりどう考えてもわくわくする。

 

ポケモンポケモンパンは、私の所有欲を満たしてくれ、現実世界で様々なものに頼りなさを感じて生きなくてはならない寂しさを癒してくれるのだ。

 

以上。

 

 

 

 

 

 

考えるのがやめられない

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どうしても考えるのがやめられない。

小学生の頃から考えすぎる子供で、しょっちゅうトイレで生きること、死ぬことについて考えては号泣してた。なんでトイレだったかはわかんないんだけど。

 

同じ学校に友達いなかったから本ばっか読んでたな。何かの間違いでデュルケムの『自殺論』を読んだり、その他自殺に関する本を読んだりもした。

 

近所中から変な子扱いされてたな。警察を出動させたことが二回ある。

でもそれはまた別のお話。

 

この頃大好きだったのは清少納言の『枕草子』で、何回も読んだ。

 

一瞬一瞬にしがみつこうと必死なのは今も昔も変わらないね。

 

反対に紫式部が大嫌いだった。今でもあんま好きじゃない。

だって紫式部って絶対ツイッターで匂わせ悪口書くタイプじゃん。知らないけどさ。

多分そうだって!!

 

芥川龍之介とか宮沢賢治とかも読んでたんだけど、未だにどっちも好き。

 

特に宮沢賢治に感動する人間を、私は尊敬するなあ。

 

芸術面だとシュルレアリスムが好きだった。

漫画は小学二年生で水木しげるにはまったくらいかな。

絵はジョンテニエルが好きだった。

 

なんだかんだで、病的な考えは病的な考えだし、汚いものは普通に汚いし、美しいものは純粋に美しいんだなって最近思います。

 

そんだけ、

じゃあね。

 

なんか最近また良くない感じだな。
こころがなんの理由も無しにずきずきすんのね、私のこれってもう治る治らないの話じゃないんだろうね。

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治れば良いんだけどね。  
私って馬鹿なの。だから人の顔忘れちゃうのよね。
正確には覚えてるんだけどね、手を振られても、それが本当にその人なのか不安になるのね。なんだか確証が持てない。
だから、恐る恐る会釈するので精一杯なの。
あとで考えてみればどう考えてもその人いがいにはありえないのにね、

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あと、漢字がわかんなくなる。
花、とか星、とか。小学生の頃に習ったやつばっかりね、わかんなくなるの。あと、昼ごはん。
でも夏目漱石が使うような難しいやつは読めんのね。
脳みそが悪いんだろうね。

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さっきから貼ってるこれは、今日撮ったやつ。
水溜りの中で。
ボロボロになったスニーカーの穴から大量に水が侵入してきて大変だった。
ぴちゃぴちゃ言いながら学校に帰った。
ちゃんと傘さしてたんだけど、私傘さすの苦手だからささないのと一緒くらい濡れちゃう。
どうなってんだろうね。
みんなどうやったらあんなに濡れずに済むんだろう。すげー。
昔から水溜りをみると、いろいろなものが頭の中に浮かび上がって来て、楽しくなる。
でもやっぱり雨って嫌だなあ。濡れてる時は爽やかな気分になるのに、後からはなんか気持ち悪いよね、服が皮膚に張り付いて。
私は健康なんだって本当は思ってるのね。
誰だって本当はそう思ってるのよね。
ゃなきゃ生きていけないもん。
個性個性言われるのも、芸術家だって言われるのも、時にはうれしかったりもするんだけど、あまりにもそういう言葉を多様する人って、自分の常識が通じない恐怖はわからないんじゃないかな。
誰だって自分の価値観、自分の中の常識でしか生きてないはずだからね。ここら辺がもう人は幻想の中に生きてるって言っていい部分だと思う。
思春期の悩みなんて結局くだんないのね。
そんだけ。
じゃあね。 

象の胎児

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こちらは私が去年の夏に制作した象の胎児です。
私は象が大好きですが、この象は本物の胎児の画像は一切みずに、頭の中に浮かんでいる象の胎児を「リアル」に作ろうとしたやつ。
しかし面白いのは、この作品を見た人が「本物みたい!」と言ってくれることです。
私は本物の象の胎児を見たことはありませんが、おそらくこんな青みがかった肌はしていないと思います。
 
制作のはじめは意志を持って行ったのですが、制作も後半になってくると、突然作品が私の体から離れて行ってしまう感じを味わいました。
私の創造物であるはずなのに、私はそれを忘れ始めてしまったのです。私は赤ちゃん用のCDをかけたりして泣きながら作品を制作しました。
そして何か悪いものが聞こえて眠れない夜には、この子の頭を何度も撫でました。そういう時に、私はより一層この子を愛おしく思いました。
私の作品を見せると、大体の人は「意味がわからない」「気持ちが悪い」と言います。そういった反応はこれまで私自身が受けてきた反応と同じです。なので私はこの象の赤ちゃんがこれから世間に晒された時に受ける恐怖を思うとやりきれない気持ちになりました。
実際にこの作品を見た人の多くは「気持ち悪い」「怖い」という反応をしました。私にはわかりませんがおそらくそれが正常な反応なのかも知れません。
しかし、もし私が自分の作品で誰かを救おうとするのであれば、そういった批判はなくてはならないものなのです。それは彼らの声を取り入れるという意味ではありません。
私はこの作品を残酷な気持ちではなく、優しい気持ちで作りました。
けれども多くの人はぱっと見のグロテスクな印象だけで、この子にも、作った私にも、冷たい視線を投げかけます。しかし彼らの冷たい目線がなくてはこの子は作品にはなれないのです。
この子には創作の中ではなく、作品としての欠点があります。
それは片側には彫刻が施されていないという点です。もしそんなことをしたら、この子は永遠に私の元から旅立ってしまう気がして、私は片側を作らないままにしておいたのです。
この子のまっさらな片側は、私と繋がっているのです。作品は私自身の一部です。

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