「嫌い」という感情を主張することは悪なのか
とある作家を「好きではない」といったところ、相手の人に影で罵られたことがあったので書きます。
私はそもそも事前にその人がその作家を好きだという情報を持ってたら、そんなことは言わなかったと思う。
誰かに進んで嫌な思いをさせようとは思ってないからね。
もしその作家について芸術について議論をしたかったとしても、ちゃんと相手を選ぶ。
私はその作家に生理的嫌悪を覚える、ってだけで、その作家自体とかそのジャンルの存在を抹消したいと思ってるわけじゃないから。
でもそれをきっかけに、「嫌い」という感情を発信するのは悪いことなのか?ということについて考えた。
私個人の考えでは
好きではないものとか人をやみくもに批判するのはあまり良くないことだと思ってる。
ニーチェは『ツァラトゥストラ』で「ハエ叩きになってはいけない」って言ってるしね。
しょーもない敵を作ることになる。
あと明らかに差別からくる嫌悪を発信することも良くない。
それは教育とか学習が足りてないってことだと思うし。
逆に自分が「これだけは譲れない!!」っていうものは主張しても良いんじゃないかな?
そうすることで周囲にいる人物を厳選できるというメリットもあるから。
嫌悪自体を醜い感情として嫌う人もいるけど、博愛主義(サルトル『嘔吐』の独学者とか)は、それはそれで分裂的な思考なんじゃないかな、とも思う。
じゃあ無関心はどうなのかっていうと、それは時と場合によって使い分けたら良いと思う。
最初に言った通り、自分が熱量を使うべきところに使って、たまには目を瞑って体力を温存するってことも大事なんじゃないかな。
そんだけ。
じゃあね。